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荘園と武士
延喜・天暦の治 とうたわれ、のちに天皇親政の理想的時代とたたえられた10世紀初めは、実は律令体制の変質と崩壊がはっきりしはじめた時代であった。律令による支配体制がくずれるのを防ぐため、政府は902年に一連の法令をだして法にそむく荘園の停止を命じたり、(延喜の荘園整理令)班田の励行をはかったりして令制の再建を目指した。
貴族の生活
男子の正装・束帯[そくたい] 簡易版は衣冠[いかん]
女子の正装・十二単(唐衣[からぎぬ]や裳[も])という女房装束。
10~15歳ぐらい 男子は元服[げんぷく]
女子は裳着[もぎ] の式を挙げる → 成人として扱われる。
女子の正装・十二単(唐衣[からぎぬ]や裳[も])という女房装束。
10~15歳ぐらい 男子は元服[げんぷく]
女子は裳着[もぎ] の式を挙げる → 成人として扱われる。
国風美術
国風美術
浄土の信仰
10世紀半ばに空也
源信(恵心僧都)が「往生要集」をあらわして念仏往生の教えを説いた。
末法思想によっていっそう強められた。
盗賊や暴力が横行。災厄がしきりにおこった世情が仏教の説く末法の世の姿によくあてはまると考えられ、来世への救いの望みがいっそう高まった。
源信(恵心僧都)が「往生要集」をあらわして念仏往生の教えを説いた。
末法思想によっていっそう強められた。
盗賊や暴力が横行。災厄がしきりにおこった世情が仏教の説く末法の世の姿によくあてはまると考えられ、来世への救いの望みがいっそう高まった。
浄土の信仰
摂関期の仏教
天台・真言 圧倒的な勢力
神仏習合 本地垂迹説・・「在来の神々」と「仏」を結び付けようとする
御霊信仰(ごりょう)・・怨霊や疫病の災厄から逃れようとする
浄土教・・来世での幸福を説く。現世の不安から逃れる。
天台・真言 圧倒的な勢力
神仏習合 本地垂迹説・・「在来の神々」と「仏」を結び付けようとする
御霊信仰(ごりょう)・・怨霊や疫病の災厄から逃れようとする
浄土教・・来世での幸福を説く。現世の不安から逃れる。
かな文学
貴族は文字を漢字だけでしるしたが、和風に。
かな文学
竹取物語や歌物語の伊勢物語、紫式部の源氏物語など。
これは宮廷や貴族の生活を題材とした大作で、清少納言の枕草子とならんで国文学の傑作。
かな日記は紀貫之の土佐日記を最初。宮廷女性が多く、女性の細やかな感情がこめられている。
かな文学
竹取物語や歌物語の伊勢物語、紫式部の源氏物語など。
これは宮廷や貴族の生活を題材とした大作で、清少納言の枕草子とならんで国文学の傑作。
かな日記は紀貫之の土佐日記を最初。宮廷女性が多く、女性の細やかな感情がこめられている。
国風文化
国風文化
弘仁・貞観文化から、大きく変わった。
摂関政治の時期に基礎が築かれたので、藤原文化とも呼ばれている。
9~10世紀ごろには7世紀以後から吸収してきた大陸の知識を利用し、旧来の日本文化がより洗練され、文学や芸術として新しい姿を見せるようになった。
宗教では、神仏習合がよりいっそう進み、浄土教が発達。
難しい仏教から、人々に親しみやすい仏教に変わっていった。
摂関政治の時期に基礎が築かれたので、藤原文化とも呼ばれている。
9~10世紀ごろには7世紀以後から吸収してきた大陸の知識を利用し、旧来の日本文化がより洗練され、文学や芸術として新しい姿を見せるようになった。
宗教では、神仏習合がよりいっそう進み、浄土教が発達。
難しい仏教から、人々に親しみやすい仏教に変わっていった。
国際関係
894
菅原道真 遣唐使の廃止
唐はすでに衰退しており、危険を冒してまで交流する必要がなかったためである。
907
唐が滅び、宋が誕生した。
宋は九州の博多に交流を求めたが、中央は消極的な姿勢を見せていた。
10世紀初め
朝鮮半島では高麗が起こり、半島を統一した。
菅原道真 遣唐使の廃止
唐はすでに衰退しており、危険を冒してまで交流する必要がなかったためである。
907
唐が滅び、宋が誕生した。
宋は九州の博多に交流を求めたが、中央は消極的な姿勢を見せていた。
10世紀初め
朝鮮半島では高麗が起こり、半島を統一した。
朝廷の政治 摂関政治の時期
先例や儀式を重んじる形式的なものになった。
宮中では年中行事が発達した。
地方では国司に政治がゆだねられる。
朝廷は積極的な施策を行うことはほとんどみられなくなった。
貴族たちは個人的に天皇や摂関家にとりいって政治的・経済的基盤を確立することに熱心。
行政に携わる責任感には欠けていた。
宮中では年中行事が発達した。
地方では国司に政治がゆだねられる。
朝廷は積極的な施策を行うことはほとんどみられなくなった。
貴族たちは個人的に天皇や摂関家にとりいって政治的・経済的基盤を確立することに熱心。
行政に携わる責任感には欠けていた。
摂政 関白
役人の任免権に深くかかわっている。
摂関家と院宮王臣家も官人推挙の権を持っていた。
よって、中級・下級の官人層はこれらの上級貴族に隷属するようになった。
摂関家と院宮王臣家も官人推挙の権を持っていた。
よって、中級・下級の官人層はこれらの上級貴族に隷属するようになった。
藤原道長
摂関家の内部では 摂政・関白をめぐって勢力争い。
11世紀、藤原道長の時におさまった。
「氏の長者」として大きな権力。
4人の娘を皇后(こうごう)や皇太子妃とし、30年ほど朝廷で大きな権力を振るった。
11世紀、藤原道長の時におさまった。
「氏の長者」として大きな権力。
4人の娘を皇后(こうごう)や皇太子妃とし、30年ほど朝廷で大きな権力を振るった。
蝦夷
平安京
宇多天皇
衣笠山 (きぬがさやま)(京都府)
衣笠山は、京都市北区にある山。高さ201m。
第59代宇多天皇が、真夏に雪景色が見たいと衣笠山に白絹をかけた故事から、別名「きぬかけ山」と呼ばれている。
衣笠山は、京都市北区にある山。高さ201m。
第59代宇多天皇が、真夏に雪景色が見たいと衣笠山に白絹をかけた故事から、別名「きぬかけ山」と呼ばれている。
タグ:宇多天皇
北家(ほっけ)
9世紀初め
藤原氏、とくに北家が天皇の権威と結びつき、勢力をのばした。
冬嗣(ふゆつぐ)・嵯峨天皇の信任
↓
蔵人頭
藤原氏、とくに北家が天皇の権威と結びつき、勢力をのばした。
冬嗣(ふゆつぐ)・嵯峨天皇の信任
↓
蔵人頭
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